タイトルどおりです。なんかね、書くことないなあって思ってるところにふとあたまに浮かんだフレーズなのですよ。イケボかつやわらかい関西弁とかいいなあって。同じ内容を語ってもきつい声色の東京弁より温かみあるしね。これと同様に同じ内容をインフルエンサーが語るのと一般民が語るのとでは人に与える影響力がだいぶ違うんだよね。
そう、で、くどいほどにリトルナイトメア2のこと考えていて、考察するにあたりストーリーのバックボーン的なものを知っているのとそうではないのとではだいぶ違うと思うのだけど、ほぼノー知識にも関わらずあれやこれやと想像して結果、シックスはオルゴールの封じ込めから解放されたくてモノをあのタワーまで導いたのかなと。モノと冒険することで特別な感情が生まれて、建物が崩れてガレキに挟まれてモノに手をひっぱってもらって助けられて心が揺らぐけど、それでもオルゴールを破壊してもらって呪縛から解放されてモノが用済みになってサヨウナラしたのかなと。モノの大人がシンマンぽいけどシックスはこどものまま大きくなったからレインコートごとからだは大きくなった。で、ピンク色の世界でおもちゃやぬいぐるみに囲まれてずっとこどものまま。シンマンはシックスを愛していたから留めておきたかった、だからモノの行動を止めたかった。シックスに手を離されてたくさんの目に囲まれるけどあれは社会的な目というか世間体とか常識とかそういうので、リアルでもそういうのに揉まれて大人になると思うんだけど、モノも子供時代の純粋な心からおとなの世界の生き物になって支配するような立場にまでなるんだけど、最後の扉が閉まるときにわずかながらピンク色が見えるのはシックスへの愛情なのかなって。そもそも前作をほとんどやってないのでシックスが何者かを把握してなくて印象が人間的感情を持ち合わせてないなって感じたのよね。モノを手段みたいに思ってるようで。手をつなぐって信頼感のシンボルみたいなものでしょ。それを不可抗力じゃなくて意思で離されるってほんとにこころにダメージ与えるんだよね。こころの絆みたいなものを断ち切られたようなね。ファントムを集めるのは鎮魂的な意味合いなのかなって。シンマンとモノの最後の対決シーンでモノが帽子を脱ぐのはじぶんが何者であるか証明するためっていうかおとなになるための儀式みたいなことなのかなって。こどもにとってはおとなになるって勇気のいることだもん。学校の先生や病院の先生が恐ろしい生き物に描かれているのもこども目線だしね。
イメージはできるんだけど言葉として表現するのって難しい。この想像は正しいとも核心突いてるとも思ってなくて、断片的にでも様々なインスピレーションを与えてくれる素晴らしい作品だなって素直に感動している。
さて試合が始まっているから見ながらごはんかな。タケベンチスタートかあ。
ではバイチャ!(ばいちゃってなんの略なんだろう)